卒業して30数年が経つが、未だに諳んじられるのは何かとよく歌わされたからか。
甲子園で、我が母校が10年ぶりに優勝をしたのは、11得点という大差であった。
途中結果を見ても、ハラハラする感が無く気が抜けてしまった。
赤坂校舎から町田に移転した年に入学した。
山1つを潰して造ったという校舎は、当時は東洋一とうたわれた。
当時流行っていた宇宙戦艦ヤマトに似て、頂上に高くそびえる司令塔は職員室。
その下から3年、2年、1年と段々畑の如く校舎が下ってくる。
校舎の下にはプール、武道場、体育館があり、その下に4百メートルトラックの運動場。
運動場を下ると野球場があり、ナイター設備まであった。
昔の甲子園球場より数メートル広いと記憶している。
学校を一周すると30分は優に掛かったか、梅雨時になるとまむしが良く出るし、狸が死んでいる光景にも出くわした記憶がある。
保健室には血清まで備えていた。
今は多摩センター駅から市バスが出ているが、その時代はスクールバス。
駅は改札のみで売店の一つも見あたらないが、駅のそばに駄菓子屋が一軒あった。
ここの駄菓子屋は当たったであろう。
当時は男子校で校舎中に汗臭さが充満していた。
小生は倶楽部で武道をやっていたので、帰りは色々な運動部の連中と連んで帰宅をする。
野球部は寮生が多かったので、帰宅人数が少ないが良く話をして帰る。
時間が空くと、途中下車をして喫茶店で一服。
みんなが先輩からいじめの如くしごかれて、高校時代は青春などクソ食らえであった様な。
ラジオから流れる優勝の校歌に合わせて口ずさみ、青春時代の辛い思い出がよみがえる。
当時のスクールバスはつり革がなく、
手すりには木刀が十数本結わえられていた・・・・・・(゜゜☆\(--メ)ポカッ。
みんな根性は入っていた。